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美しい海を取り戻すには人の心に木を植えることー
世界を変えた「カキじいさん」のこれまでとこれから【後編】

震災を通して証明された
「森は海の恋人」運動の真理

2011年3月11日。
東日本大震災の津波は、畠山さんの暮らす気仙沼市にも甚大な被害をもたらした。気仙沼湾内だけで1,200人もの人が亡くなり、台風も入ってきたことがない波穏やかな舞根湾にまで津波は押し寄せた。海はがれきと油にまみれて黒く濁り、生き物は消え果てた。

しかし海は復活したのである。震災後わずか2ヶ月程で魚影が戻り、5月には京都大学の調査チームにより、海に大量の植物プランクトンがいることも確認された。調査に当たった教授は「これは背景の森と川の環境を整えていたことが功を奏しています」と畠山さんに言い、「“森は海の恋人”は真理ですね」と20年来の取り組みを讃えたという。


畠山さんは確信を込めて言う。
「日本は脊梁山脈を分水界に3万5000もの川が海に注いでいる。川の水が周縁を覆っている汽水の国なんです。しかしダムや河口堰、あるいは森林活用などの問題で、各地で川の流域が破壊されています。森と川の環境を見直し、汽水域がしっかり守られるようになれば海産物が豊かになりもっと食べる機会が増えるはず。例えば、汽水域で生育するマルバアサクサノリは赤いけど香りが良く、これでおにぎりを作ると本当にうまいんです。寿司にしてもネタが安くなれば、結局は米の消費拡大にも繋がって農家の生活も守られる。そういう経済的な好循環も生まれることに、みんな早く気づいて欲しい」。

沼地の広さは約1ヘクタール。2年かけて復元をさせると畠山さんはいう

 

ニューヨークの摩天楼が
繁栄の代わりに失ったもの

震災の翌年には、畠山さんは国連森林フォーラムから、長年の深林保全活動をしている個人または団体に贈られる「フォレストヒーローズ(森の英雄)」に選出され、ニューヨークの国連本部へ向かった。

ニューヨークといえば、グランドセントラル駅地下のオイスター・バーが有名だ。でもニューヨークと牡蠣の関わりは、実は200年以上も昔にさかのぼるといい、18世紀中頃までは世界一の産地だったという。ニューヨーク、が!?
畠山さんがそれを知ったのは、アメリカ人作家マーク・カーランスキーの書いた「牡蠣と紐育(ニューヨーク)」という本。これをニューヨークへ向かう飛行機の中で読破したというのだから、つくづく牡蠣とのただならぬ縁を感じさせる。その本によると、ニューヨーク湾へ注ぐハドソン川河口の汽水域には約900平方キロメートルに渡って牡蠣の繁殖地が広がっており、今のブルックリンやクイーンズ、マンハッタンの海岸でも牡蠣が生息していたという。当時、世界中の牡蠣の半数がここニューヨーク湾に生息していたと唱える学者すらいるそうだ。
「授賞式の翌日、マンハッタンからシタテン島へ向かうフェリーに乗って、シタテン島側からニューヨークの摩天楼を見たんです。あそこ(摩天楼)にはありとあらゆるものがあると思うかもしれないけど、そういう考えが人間の未来をダメにしている。牡蠣はね、5億年も昔から地球で生きてきた。そんな牡蠣からすれば、いまの文明はせいぜい100年や200年そこらで、それ以上はとてもじゃないけど持ちこたえられないというでしょうね」。
きらびやかなビル群も、牡蠣のまなざしを持つ“カキじいさん”畠山さんからすれば、砂上の楼閣のようにあやふやな存在でしかない。牡蠣が生き延びることのできない世界は、人間にとっても生きづらい世界なのだ。

「人類が生き延びる道は明白だ。生牡蠣を安心して食べられる海と共存することである」。

摩天楼を見ながら、畠山さんはこう呟いたそうだ。
おしゃべりな牡蠣が、畠山さんの口を介して言わせたとしか思えない。

 

「食べてみて」と、その場で殻を割る。あらわれた牡蠣の大きさ、その旨さにも驚く

 

この場所を、自然観察のメッカに
舞根ではじめた新たな試み

震災からまる7年が経ち海の環境は戻ったが、風景は津波により大きく変わった。舞根でも住宅の多くは高台に移転し、入り江の奥には元は水田があったという沼地が広がっている。この場所で畠山さんは今、生物のすみかを創り出す新たな試みをスタートさせている。

 

沼の周囲に生えている針葉樹は潮を被り枯れているところもあるが、広葉樹に変化はなかった。津波でわかった自然の強さのひとつでもある

それは杉林に囲まれた1ヘクタールほどの広さで、ヨシが繁茂する真水の沼へと潮の満ち引きに合わせて水路から海水が入ってくる場所だ。ヨシの生えている一帯は真水が濃く、この地域にしかいない貴重なメダカも生息しているという。驚くのは、水路にびっしりと牡蠣が張り付いていることだ。入り江のこんな奥深くにまで、海水が上がってきていることの確かな証しである。

 

取材時に畠山さんが牡蠣の殻を叩き割るとシマカツカが現れた

水路に入った畠山さんが、張り付いた牡蠣の殻を叩き割る。すると、あっという間に小魚が集まってきた。白地に縦縞の入った、このへんではシマカツカと呼ばれているハゼ科の魚が、あらわになった牡蠣の身をツンツンとついばんでいる。
「ここにはメダカもいるし牡蠣もいるし、カニやウナギだっている。この貴重な沼を元通りに復元して、舞根を、森も海も沼もある、あらゆる自然環境が観察できる場所にしたいんだ」。
眼鏡の奥の目がキラキラと輝いている。津波は、畠山さんが積み上げてきた「森は海の恋人」運動のあらゆる記録と資料を奪ったが、意志と情熱はむしろ強くなったのではないか。しかし畠山さんは「俺は単なる“繋ぎ”ですよ」と爽やかに笑うばかりである。活動をはじめて30年、1万人にも及ぶ子どもたちがここで畠山さんと同じように生き物たちの姿に目を輝かせ、森と海の関係に想いを馳せながら、今、社会のあちこちで環境に関わるキーパーソンとなって活躍しているからだ。
「だから大丈夫、この国は変わっていきますよ」。
人の心に木を植え続けてきた牡蠣漁師、畠山重篤さん。その目には、小さな若木が大きく枝葉を広げ、大きな森をかたち作りはじめた未来がありありと見えているのだろう。

朝は4時に起床し、舞根湾を望む小屋で3時間ほど原稿用紙に向かう。年間100日は講演会や授業で各地を飛び回る多忙な日々を過ごす

 

お会いするまでは、「牡蠣の養殖に情熱を燃やす寡黙な海の男」という勝手な像を描いていた。
しかし実際の畠山さんはとても饒舌でユーモアがあって、ことに海や海の生き物たちのことを話すときは、(白髪と口ひげをたくわえてはいるけれど)少年のように全身で楽しさをうったえていた。
一方で、文学や短歌という「言葉」の世界への敬意や共感もまた並々ならぬものだった。子供の頃に読みあさった本のこと、歌人熊谷龍子さんとのやりとり、そしてここに書ききれなかった文学や言葉に関わる人々との出会いも、畠山さんだからこそ引き寄せることができたのだと確信している。なにより、畠山さん自身が素晴らしいエッセイストなのだ。著書「森は海の恋人」「リアスの海辺からー森は海の恋人」には、舞根の美しい海や人々の力強い営みが、そこに生きる人間ならではの視点で繊細かつ温かな言葉でつづられていて、心に響く表現に出会うたびに何度もため息をついた。

畠山さんは、その言葉で私の心にも木を植えてくれた。ゆっくりと大事に、育てていきたいと思っている。

 

「大丈夫、この国は変わっていきますよ」。畠山さんが30年をかけて子どもたちの心に植え的た木。いま各地で根付き、社会を変える力になっていく

前編はこちらから

 

NPO法人・森は海の恋人
宮城県気仙沼市唐桑町東舞根212 舞根森里海研究所
www.mori-umi.org