【みちのく 物語のふるさと紀行】
“ひろすけ童話”の原点を訪ねる。
浜田広介のふるさと・高畠へ。

「児童文学作家」を名乗ってはいるが、体系的に学んだことは一度もない。講演等で学校を訪ねると、時々子どもたちから「作家になるには?」と質問されるのだが、その度に「本をたくさん読むこと」と答えている。平凡すぎて恥ずかしいが、実際、それしかしてこなかった。それも、意図せずに。もっと言うなら、本を読むしかない環境に育った。

 

生まれは、茨城県北部の山の中だ。山間に小さな集落が点在する地域で、他所の学校の生徒から「僻地」「僻地」とからかわれるようなところだった。

あるのはただ自然だけ。楽しみと言えば、本を読むことだけだった。

教師をしていた伯父が、保育園にも幼稚園にも通わず(通える場所になかった)、ひたすら野山を駆け回っていた私を案じて絵本を贈ってくれたのがはじまりで、小学校に入学し、図書室と出会ってからは、むさぼるように本を読んだ。

 

その頃出会った作品の中に、浜田広介の「泣いた赤おに」があった。当時好んで読んでいた物語とは異なる、切ない結末にとまどった私は、この作品を心の本棚の「ほろ苦い味わい」という棚の奥深くにしまい込んだ。

 

「物語のふるさとを訪ねる」というテーマをいただいたとき、まず浮かんだのはこの作品であり作家だった。「ほろ苦い味わい」の原点を知りたいと思った。

 

置賜はくにのまほろば

浜田広介は、山形県高畠町出身の童話作家で「日本のアンデルセン」とも呼ばれています。日本の児童文学の先駆け的存在で、作家人生50余年の間に、約1000編もの童話や童謡を世に送り出しました。代表作品として『泣いた赤おに』『りゅうの目のなみだ』『よぶこどり』『むくどりの夢』などがあります。

〈浜田広介記念館 ホームページより〉

置賜地方の東部、奥羽山脈の裾野にある高畠町のキャッチフレーズは、「まほろばの里」。「まほろば」とは「山々に囲まれた実り豊かな住みよいところ」という意味だ。この地の春景色を、山形出身の歌人・結城哀草果は「置賜はくにのまほろば菜種咲き 若葉しげりて雪山もみゆ」と詠んでいる。

そんな「まほろばの里」に、浜田広介記念館はある。

 

訪ねたのは、12月半ば。仙台を出て1時間余り。県境を過ぎたあたりから雪が見えはじめ、高畠に入る頃には完全に雪景色となった。雪の平原が紫色に霞む山並みの麓まで続く景色は、結城哀草果が詠んだ「まほろば」の景色とはほど遠い。けれど、大満足だった。この景色をもう一度見たいと思っていたからだ。

 

実は、記念館を訪ねるのは初めてではない。20年余り前、観光情報誌の取材で訪ねたことがある。春号ということで、高畠駅から、桜並木が続く「まほろばの緑道」を歩いて浜田広介記念館へ向かうプランを立てた。読者に、“まほろば”の景色と“ひろすけ童話”の世界を楽しんでいただこうという趣向だった。

 

内容は春だが、取材に訪れたのは2月。高畠は、雪、雪、雪。膝上まで積もった雪の中を、約2㎞歩いた。雪まみれで記念館にたどり着いたところまでは覚えているが、そこから先の記憶がない。ちゃんと見学したはずなのだが……。

 

今回、記念館を訪ねるにあたり、あえて12月半ばを選んだのは、このときのリベンジを果たしたいという気持ちもあってのことだった。20数年ぶりに再会した記念館は、あの日と同じく、分厚い雪にすっぽりと覆われていた。

木立の向こうに見える屋根は、右から浜田広介記念館、ひろすけホール、広介生家。
JR高畠駅から記念館へとつづくまほろばの緑道。春になれば桜が咲き誇る。

“一筋の道”の原点

「今年は雪が早くて……」

出迎えてくださった館長の島津正道さんは、申し訳なさそうにそう言うと、さっそく館内を案内してくださった。

浜田広介記念館は、“ひろすけ童話”の世界を紹介する本館、小山をモチーフにした「ひろすけホール」、移築復元された「広介の生家」、ひろすけ童話をモチーフにした池や石像、石碑がある「ひろすけ庭園」などから成る。

まず向かったのは本館の展示室、広介の生い立ちや創作、交友などを紹介する“一筋の道”というコーナーだ。このタイトルは広介の「立ち止まり 振り返り またも行く 一筋の道だった」という言葉に由来する。

 

記念館の一角では、広介の著作や研究書のほか、浜田広介の思いを継承するために創設された「ひろすけ童話賞」の受賞作品も販売されている。

 

「浜田広介は明治26年(1893年)、東置賜郡屋代村(現高畠町)で農業を営んでいた浜田家の長男として生まれました。浜田家には代々学問を大切にする家風があり、広介も就学前から読み書きを習ったり、絵を描いたりしていたようです。母親に連れられて田畑に出ると、広介は虫を見つけ、鳥を眺め、自然を相手に遊びました。また夜になると、母親や祖母がたくさんの昔話を聞かせてくれました。広介は感受性が強い子どもでしたから、哀しい話にはつい涙をこぼしてしまう。すると母親が『泣くならもう……』と言って話をやめようとする。その度に首を振り、懸命に涙をこらえて話に聞き入っていたそうです」

 

一方、教育熱心な父親や叔父(母の末弟)は、広介が小学校に入学すると、当時は貴重だった巌谷小波のお伽話や少年雑誌を買い与えた。広介はこれらを読み、また雑誌に作文や詩を投稿し、何度も入選を果たしたという。

 

置賜の豊かな自然、母親や祖母から聞いたたくさんの昔話、父親や叔父が買ってくれた本や雑誌。これらが広介の感性を育み、その心を文学に向かわせたことは想像に難くない。

しかし、恵まれた子ども時代は長くは続かなかった。米沢中学校(現山形県立米沢興譲館高等学校)に入学して間もなく、それは唐突に終わりを迎える。

移築復元された生家では、板戸に描かれたいたずら書きなども見ることができる。

 

童話作家・浜田広介、誕生

「あるとき下宿先の米沢から帰ると、母親と弟妹の姿がない。母親が弟妹を連れて実家に帰ったことを知った広介は、自分も母親のもとへ行こうとします。しかし、父親は長男である広介にそれを許しませんでした。そこから、厳格な父と二人きりの寂しい暮らしがはじまりました」

 

その後、状況はさらに厳しくなる。父親が背負った借金で生家が破産。そんな中、広介は早稲田大学に進学する。生家を捨て、故郷を捨て、汽車賃だけを持ち、東京に滞在中の友人を頼っての上京だったという。

 

「苦学生となった広介は童話の英訳や翻訳をしたり、懸賞小説に応募するなどして生活費を稼ぎました。アンデルセンの童話に出会ったのもその頃です。心情描写や自然描写の素晴らしさに感銘を受けたといいます」

広介の年譜や遺品、原稿や書籍などが展示されているコーナー。年譜を見ると、起伏の大きな生い立ちが〝ひろすけ童話〟の根っこにあることがわかる。

転機は、早稲田大学在学中に訪れた。大阪朝日新聞社主催で募集した新作お伽話の一等に、広介の「黄金の稲束」が入選したのだ。大学の入学金が3円、授業料が14円という時代に、広介は50円もの賞金を得た。しかし、この賞が広介にもたらしたものは、それだけではなかった。

「選者の一人であった巌谷小波に、それまであった勧善懲悪の物語とは一線を画する、善意や思いやりが根底にある作品であることを評価されたのです。以降、広介は、人間の好意、善意を『こころ』とする童話を書いてゆこうと決意しました」

 

処女作「黄金の稲束」が掲載された大阪朝日新聞。紙面には「一等は早大文科生 二十五歳の濱田氏」という見出しも見える。

 

この入選がきっかけとなり、広介は雑誌「良友」に誘われて、編集をしながら童話・童謡を発表するようになる。童話作家・浜田広介の誕生だ。ここから、「よぶこどり」「むくどりの夢」「泣いた赤おに」「りゅうの目の涙」といった作品を次々に発表してゆく。

 

こうして広介は「日本のアンデルセン」と讃えられる作家となり、広介が紡いだ愛と善意を軸とする童話は“ひろすけ童話”と呼ばれるようになった。

 

切なさが、人の情を育む

見学の途中、童話ルームで「泣いた赤おに」の上映を見せていただいた。

映像でみても、その印象は幼い頃とほとんど変わらなかった。

誰かの犠牲の上に、本当の幸福は成立しない。結局のところ、赤おにと青おに、それぞれに哀しみだけが残ったのだと改めて思った。――やはり、ほろ苦い。

大画面のマルチスライドで上映される「泣いた赤おに」は、女優・長岡輝子さんの朗読によるもの。味のある声が物語の切なさをさらに際立たせる。

 

この独特の味わいについて、島津館長はこんな話をしてくださった。

 

「童話には幸福感や満足感を与えるようなハッピーエンドではなく、哀れさをとどめることが大切であると、広介は考えていたようです。切なさや哀しさは、子どもの心に長く残り、成長とともに大きくなる。その過程で人としての情が培われ、愛や思いやりの心が生まれるのだと」

 

なるほど、私が感じたことは、まさに広介の狙い通りであったのか。

そして、たぶんそれは、広介が自身の経験から学んだことだったのだろう。

 

「私は、“ひろすけ童話”には人としての情を育む力があると思っています。ですから、館内を案内するときには必ず『豊かな社会を育むためにも、“ひろすけ童話”をぜひお読みください』とつけ加えています」

 

島津館長のそんな思いが伝わったのだろうか。平成30年度から始まる道徳の教科化、その授業で使われる教科書の多くに「泣いた赤おに」が掲載されているのだそうだ。

 

「全国の子どもたちに『泣いた赤おに』が読まれるのは、喜ばしい限りです。その子たちが記念館を訪ねてくれたら、これほどうれしいことはありません」

 

平成29年11月、東北自動車道の福島大笹生ICから南陽高畠ICまで、東北中央道がつながった。平成30年、浜田広介記念館は開館30年目を迎える。加えて、「泣いた赤おに」の教科書掲載。“ひろすけ童話”を見直す流れが来ていると言ったら、言い過ぎだろうか。

 

 

「子どもたちには、知名度の高い『泣いた赤おに』以外の作品もぜひ読んで欲しい」と語る島津館長。その言葉の端々から、広介がふるさとの人々から今なお愛されていることが伝わってくる。

 

幼い頃、広介が母親や祖母から昔話を聞いたという囲炉裏端。しんしんと雪が降り積む寒い夜も、この場所にだけは温かい時間が流れていたに違いない。奥には東京の書斎が再現され、広介が実際に使用した家具や文具なども展示されている。
記念写真スポットにもなっている泣いた赤おにの石像の前で館長と筆者。

 

物語のふるさとを訪ねる意味

記念館を辞したあと、広介が眺めた景色に身を置いてみたくなった。向かったのは、和田川にかかる「おっかな橋」。ふるさとの自然を愛した広介が、よく釣りを楽しんだという場所だ。

橋の袂から雪を漕いで土手を下り、川岸に立ってみた。

見渡せば、空には低く垂れこめた灰色の雲。大地はどこまでも続く雪野原。

この色も、この景色も、広介が眺めたものとそれほど変わっていないはず。そう思ったら、愛おしく思えてきた。

広介の豊かな感性を育んだ、ふるさと高畠の冬景色。

 

物語は風景の中に眠っている、と、思っている。広介もまた、「空想は、頭に自然に浮かんでくるというようなものではなく、日ごろからものを観察し、ものの動きを見るところから芽生えてくる」と記している。

この風景から、広介はどれほどの物語を紡いだのだろう。

自分は、どれほどの物語を紡げるだろう。

雪の中に佇みながら、そんなことを考えた。

そんなことを考えたことに、20余年の時の流れを感じた。

 

――物語のふるさとを訪ねることには意味がある。

作品を深く理解し、味わい尽くすだけでなく、それがひとつのきっかけとなって、何かしら、自分の人生に利する善きものを得ることができるのではないだろうか……。

 

高畠からの帰り道、つらつら考えていたら、記念館で手に入れた本の中から、こんな文章を見つけた。作品と作家のふるさとについて記された文章だ。

 

童話においても、風土性、郷土色は、作者育ての母胎であって、作者の作にしぜんにでる。とくにそれを意識して付けたさなくてもそのものは、宿命的に質であり、色である。人はそれを郷愁とたやすく呼んで、作品を回顧的なかたちにおいて見ようとするが、そうするまえに、作品を郷土に照らしてさぐるなら、その宿命のかたいキズナを知るであろう。童話にしても、その作品をよく知るためには、作者の郷土をためしにたずねてみるがよい。

浜田広介著「童話文学と人生」(集英社)より

 

先生に、背中を押していただいたような気がした。

 

まほろば・童話の里
浜田広介記念館
www.takahata.or.jp/user/hirosuke
山形県東置賜郡高畠町大字一本柳2110番地
TEL 0238-52-3838

佐々木ひとみ

児童文学作家、コピーライター。日本児童文学者協会・日本児童文芸家協会会員。
茨城県日立市生まれ、宮城県仙台市在住。2010年「ぼくとあいつのラストラン」(ポプラ社)で「第20回椋鳩十児童文学賞」を受賞。2016年「ぼくとあいつのラストラン」(ポプラ社)が原作の鹿児島市椋鳩十児童文学賞記念映画「ゆずの葉ゆれて」公開。