奥会津の暮らしから
[第1回]露骨な人間の野生

「どうしてこの場所ではじめたの?」
この質問は、僕がゲストハウスをはじめてからおそらく一番多くされた質問かもしれない。たしかに福島県の中でもトップ(ワースト)3に入る高齢化率を誇ってしまっているこの奥会津・三島町でゲストハウスをはじめたのだから、皆、素朴な疑問として聞いてくるのは自然なことかもしれない。

 

冬の只見川(三島町)

 

僕自身、今まではっきりとは、この質問と向き合ったことがなかった。だからこの質問をされる度に、いつも歯切れの悪い答えを返してしまっていた。今回改めて、その理由について思いを巡らせてみると、どうやら僕のなかで奥会津と印度の記憶がつながっているようだ。今回は、僕が東北の奥会津に惹かれ、住みついた理由に迫ってみたい。

僕は予備校、大学時代を含めて10年ほどを東京で過ごしたけれど、それまでの18年間は長野県・諏訪市で生まれ育った。小・中・高校生だった頃、僕は田舎をよく自転車で乗り回していた。そんなとき度々目にする、錆びて赤茶けた農家の納屋や、古びた茶色い街並みが、当時の僕はあまり好きではなかった。それらはどこかみすぼらしく、貧しさを垣間見せていた。

時代(1980年〜90年代)は、まだ高度経済成長の面影を残す、強く(経済的に)豊かな日本だった。そして当時の僕は、他の皆がそうだったように東京に憧れていた。だから、冬の日に雪が積もって、そんな古びた風景の一切が真っ白に染まると、とても清々しい気持ちになった。そして、そんな白いキャンバスのような雪景色は、どこか無機的で均質な都会の街並みと自分の中でつながっていたのかもしれない。僕はトレンディドラマにホップし、メンズノンノにステップし、長渕剛でジャンプした。

そんな憧れの場所、花の都大東京ではあったが、何年かすると僕は多大なる違和感を抱きはじめた。この街は、ラピュタみたいに大地から切り離されて、浮き足立っている。

無数にあるコンビニや、どこにでもあるスーパーの中に綺麗に陳列されている食材は、一体何処から来て、消費されたそれらは、一体何処へ行っているのだろう?そのプロセスが綺麗に覆い隠されていて、どこか白々しく嘘くさい。命も見えなければ、そこから排出されるゴミもまるでなかったかのようだ。

そんな疑問を持ちはじめた僕は、ちょうど大学が美術大学の映像科だったこともあり、屠殺場のドキュメンタリーを撮ろうと屠殺場にアポを取りに行ったこともあった。けれどもそこで働く方々のデリケートなプライバシーなどの問題があり、撮影は出来なかった。それでもまるで喉が乾くかのように、本当のことが知りたい僕の欲求は募っていった。

そんな最中、僕は印度を訪れ3ヶ月くらい旅をした。印度は、一言でいうと

「露骨だった。」

それは求めているものでもあった。ヤギの生き血が大好きだという神様を祀るお寺では、30分おきに生きたヤギが鉈で頭を打(ぶ)った切られ、切り離されたヤギの胴体は、前脚で自分の頭を蹴ったりしていた。そこがつまり屠殺場になっていて、そのすぐ隣では肉が売られていた。

街の至る所にはお菓子だとか何だとかのビニールゴミが散乱していて、それでも収まり切らないそれらのゴミは、街の外れの沼地のようなところ一面に堆積していた。悪党は覆い隠せないくらい悪党ヅラをしていた。善人は何か信じる神様がいるようだった。

ガンジス川の此方(こちら)側は雑踏で蒸し返しているのに、川の向う側は何もない荒野で、それはまるで、彼(あ)の世のようだった。また、マザーテレサが創設したカリーガートと呼ばれる、助からない病故、死を待つ人々のみが入院している施設で、一番多く働いているのは日本人ボランティアだった。東京では皆ハローもグッバイも言わなくなっていたが、そこには日本人としての希望を感じた。

 

道路の脇に捨てられた牛骨の山と、その肉を取られまいと唸りながら見張る野良犬 (印度滞在時に撮影した写真より)
ゴミが堆積した沼地(印度滞在時に撮影した写真より)

あれからおよそ10年。40度の灼熱の印度から、今僕は−10度の奥会津にいる。

奥会津に移住する直前、僕は岐阜県の飛騨高山で木工の修行をしていた。2年間の修行が明ける頃、仕事を探していた僕のところに三島町のものづくりの拠点、生活工芸館から求人が届いた。バックパッカーをしていたからか、知人も友人もいない見知らぬ場所への抵抗はなく「それも面白そう。」くらいに思った。また三島町の生活工芸運動の考え方に惹かれたこともあった。無事に採用されたこともあり、そんなこんなで「会津ってどこだろう?」程度だった僕は、軽い気持ちで行ったこともない奥会津への移住を決めた。

そんな奥会津へ移住した当初、霙(みぞれ)混じりの雨が降る夕暮れ時に車を運転していると、ふと、雨蓑(あまみの)と笠(かさ)を被った人が僕の前を横切った。「日本にもまだこんな場所があるのか!」と衝撃だった。また、職場の上司がたまたま熊撃ち猟師だったので雪山をひたすら3日間掛けて歩き、熊撃ちに同行させてもらった。雪山を3日間歩き続けると、山の透明な空気と同化するみたいに、僕の精神も里の煩わしさが遠のき、澄んでいった。

現在も雨蓑を実用しているゲストハウスの隣人(三島町)

それから、山村の食文化は貧しいと思われているかもしれないが、実際の山の食生活はとても豊かだ。春の山菜に秋のキノコ、野菜やお米も自給自足で、採れたての「生命力」を目の前の山から引かれたお水で頂く。そんな暮らしは、都会でオーガニックと言われる食品以上の豊かさだと思う。人は大地と直結している。

秋に採れる様々なキノコ

ただ、この場所は天国ではない。娑婆世界だ。インドと同じように悪党もいる。奥会津の悪党もどうやらその悪党ヅラを隠すのは苦手みたいだ。悪党はせっせと悪知恵を働かせている。善人は自然に即して慎ましくも朗らかに暮らしている。おそらく此処では、そんな生活がずっと続いて来た。良きも悪しきも孕んだここの生活はそれでも東京のように白々しくはないようだ。剥き出しの人間性が剥き出しの野生で生きている。

 

熊を解体した後の現場(三島町)

日本にもまだこんな場所がある。おそらく東京にいるとき、僕は少し病んでいた。もしかしたら今の東京はもっと深刻な状況かもしれない。過去の自分がそうだったように、何か心の喉が渇いているかのように「命」を感じたい若者が都市部や今の日本にいるのなら、ここに来て「露骨な人間の野生」を感じて欲しい。今まで、ちゃんと考えたことはなかったけれど、僕がこの場所でゲストハウスをはじめた理由、それはきっとそんなことなのかもしれない。

 
[著者]三澤 真也

1979年長野県諏訪市生まれ。
武蔵野美術大学造形表現学部映像学科卒。大学卒業後20代は絵画、映像、パフォーマンスを中心にアート活動を展開。国内外でパフォーマンスアートフェスティバルに多数参加。アート活動の傍ら2年ほど国内外を放浪。その後、飛騨高山にある「森林たくみ塾」にて2年間の木工修行を経て、三島町生活工芸館の木工指導員として勤務。復興アートプロジェクト「森のはこ舟アートプロジェクト」に参加。現在、三島町の「ゲストハウス ソコカシコ」オーナー。

 

ゲストハウス ソコカシコ 
969-7512 福島県大沼郡三島町桑原荒屋敷1302
090-3345-3043