生命の縄
-奥会津の暮らしから-[プロローグ]
水平線の彼方に遠い異国の雑踏を想像するように、今僕らは物質的な豊かさの先に「本当の豊かさ」を模索しながら、新しい未来を創造しようとしている。
そんな動きが、今この国のそこかしこで生まれて来ている。
それは、全国各地に生まれているゲストハウスや、クラフトビール、古材活用、古民家リノベーションなど様々な形で現れて来ている。そして僕自身もそんな成熟へと向かうこの国の未来の、ほんの一端でも担えたら…。そんな想いで2017年6月、福島県の奥会津・三島町という場所に「ゲストハウス ソコカシコ」をオープンさせた。
ただ、僕がゲストハウスをはじめた三島町は、県下でもワースト3に入るほど過疎高齢化が進むエリアで、僕が移住して来た8年前には2,000人以上いた人口も、今では1,600人台と、深刻な人口減少問題に直面している。「人がいるところで商売する」ことがビジネスの基本だとしたら、およそ商売には向かないこの場所で、それでもゲストハウスを始めようと思ったきっかけは、おそらく僕が20代の頃まで遡る。
その頃の僕はアーティストになりたくて、アート活動を続ける傍、国内外を2年近く、何かを求めて旅を続けていた。そんなとき九州で出会った今の僕の恩師は、日本の歴史が4回ほど分断されていることを教えてくれた。1回目は、大和朝廷ができた頃、2回目は明治維新、3回目は第二次大戦のあと、4回目が高度経済成長。その度にきっと僕らのライフスタイルは著しく変わっていったに違いない。そして今、僕らは更にその上に、ITインフラが乗っかっているこの世界を生きている。
そんな歴史の断絶に気付いた後、20代の僕はそれら歴史の断絶を紡ぐことを目的に旅を続けていた。
時には、種子島で野宿をしようと思っていると、島のおじさんに「夕食を食べていかないか?」と声を掛けて頂き、僕の旅の目的を告げると、戦時中、朝鮮に出兵しており、その最中に終戦が告げられた話をしてくれた。
「日本人は朝鮮の人に酷いこともしていたから、命からがら朝鮮から帰ってこなければならなかった。見つからないように人里を避けて山に入り、雪山で焚き木をして夜を明かすこともあった。そうすると、あまりの寒さにうさぎも一緒に暖を取りに来たよ。宿に泊まっても、実はお金を持っていなかったから、お金を持っている振りをしてご飯を食べさせてもらい、まだみんなが寝静まって夜が明ける前に宿を出た。そうすると、宿のお母さんが玄関先で待っていて、何にも言わずにおにぎりを持たせてくれたんだよ。今誰か困っている人がいて、こうしてご飯を食べさせたりするのは、あの時のお母さんへの恩返しだと思ってやっている。」おじさんはそんな話をしてくれた。
もし僕らがこの国や、自分たちの足元の確かな未来を思い描けないのだとしたら、それはきっと、この国のそれぞれの地域で培われてきた過去からの記憶をうまく思い出せないからなのかもしれない。
「記憶の断絶を紡ぐこと」それはそのまま、僕の人生のテーマとなった。
そんな自分にとって8年前、タンポポの綿毛のように何の脈絡もなく飛来したこの土地は、期せずして、過去からの結びつきがとても強い場所だった。そして、それは同時に、大地とのつながりの強さでもあった。奥会津三島町は面積の85%以上が森林に覆われている。そして、一年の半分は雪に覆われる世界有数の豪雪地帯でもある。今でこそ数十分車を走らせれば、食料でもなんでも手に入るけれど、車もなかった一昔前まで、この厳しい自然環境の中で、自然と対峙し、感じ取り、読み解き、生き抜いてきた力は、しなやかでとても強い。
僕自身、三島町の小さな山村の集落で7年間暮らした経験から、そういった自然環境を生き抜くためには、集落単位のコミュニティの中に、ある一定の「生活の強度」が宿っていなければ、集落を存続させていくことはできなかったのだろうと感じている。
それらは、植物や樹木の皮を使って生活道具を作る術、保存食、山から木を伐り、活かす術、狩猟採集の能力など、それぞれが得意なことを分担したり、シェアしたりしながら、コミュニティを存続させるための「強度」を保ってきたのではないだろうか。それはまるで、一本ではすぐに切れてしまう稲藁が、束になり、綯い合わさることによって、生活に役立つための強度を宿し「縄」となるのと同様に、ここの人々は、厳しい自然環境を生き抜くために結束して、前の世代から連綿と綯われてきた、暮らしの英知が詰まった「生命の縄」を引き継ぎ、さらなる創意工夫を重ねて、そのまた次の世代へと繋いできたのだろう。
そんな痕跡は、僕がはじめたゲストハウス・ソコカシコの下からも出てきている。ソコカシコは、荒屋敷遺跡という縄文遺跡の上に建っており、その遺跡からも、かなり緻密な竹細工や漆細工、木製品などが沢山出土されているのだ。
綻びはじめた生命の縄
そんな、ともすれば縄文時代からずっと続いてきた「生命の縄」が、今はじめて次の担い手を見失い、綻びはじめている。高度経済成長に伴うライフスタイルの変化の中で、今の70、80代以上の方々が引き継いできた山村の暮らしは、あまりに手間暇が掛かることが多いため、確かな紡ぎ手を見失ったまま、ひとつ、またひとつと消えていっている。そのような事態を民俗学者の赤坂憲雄氏は、たしか「緩やかな津波」と例えていたように記憶している。たしかに僕らは、そのような事態に為す術もないまま、呆然と立ちすくむしかないことがあまりに多い。
それでも、何もして来なかったのかというと、そうではない。非力であっても、このゲストハウスを立ち上げたこともその一つの手立てであり、少しでも多くの方々と、ここでの暮らしをシェアし、紡いでいきたいと思っている。また、昨年度まで3年間に渡って私が関わって来た「森のはこ舟アートプロジェクト」という福島県の文化事業のなかでも「喪失」を紡ぐ僅かな手立てを講じて来た。
この度、WEBマガジン「みちの」で、そんな僕がこの場所で、もがいて来た幾つかの取り組みや、この場所で僕が生き、感じて来た「みちのく=みちなる」東北・奥会津の豊かさや奥深さについて連載する機会を頂いた。この場所の深遠なる魅力に少しでも迫れたらと思っている。
最後に、
僕らや、僕らの次の世代、そのまた次の世代が生きていくこの世界が、どうか土の匂い香る、どこか懐かしい、優しい世界でありますように。
[著者]三澤 真也
1979年長野県諏訪市生まれ。
武蔵野美術大学造形表現学部映像学科卒。大学卒業後20代は絵画、映像、パフォーマンスを中心にアート活動を展開。国内外でパフォーマンスアートフェスティバルに多数参加。アート活動の傍ら2年ほど国内外を放浪。その後、飛騨高山にある「森林たくみ塾」にて2年間の木工修行を経て、三島町生活工芸館の木工指導員として勤務。復興アートプロジェクト「森のはこ舟アートプロジェクト」に参加。現在、三島町の「ゲストハウス ソコカシコ」オーナー。