湯けむりの国に、太古の記憶が息づいている。
世界が驚いた「硫黄呼吸」の発見。
【東北大学・赤池孝章教授に聞く】
みちのくの旅には温泉が似合う。
心もからだも癒される湯けむりの旅は何ものにもかえがたい贅沢。
いろいろな効能がうたわれているが、
硫黄の香りにも効能があるのでは、と勝手に思っている。
そんな中、我々の常識を覆すような大発見の記事に出会った。
「硫黄呼吸」。
太古からのDNAがうずき出すような神秘の発見に、
思わずサイエンスライターとしての血が騒いだ。
硫黄の香りに包まれながら
太古の生物のことを考える
すざまじい勢いで噴煙が立ち上る玉川温泉の地獄谷。
ゴーゴーといううなりのような音が響き渡り、一帯は硫黄の臭いが霧のように漂いつづけている。
秋田県仙北市にある玉川温泉では、そこらじゅうから硫黄の臭いがする煙が立ち上り、見る者を圧倒させている。
全身ヒリヒリするような強酸性のお湯につかると、自然と火山がいたるところで活動していたような原始の地球に思いを馳せることになる…
…太古の昔。
地球大気にはほとんど酸素がなく、あるのは窒素や二酸化炭素などで、ちょうど今の火星のような状態だったらしい。
では、酸素のない太古の地球上では生物はなにを「呼吸」していたのか?
答えは、「硫黄」だ。
火山など非生物から発生するため、初期の地球から環境中に豊富に存在していたと考えられている。その時代の生物は酸素ではなくこの硫黄を「呼吸」していた。
時代が進み、光合成ができる生物「シアノバクテリア」の登場で酸素が生まれる。とても画期的な事件で、それ以来、酸素によって生物は活発に動けるようになり、より多くの種に進化してきた。
現在、ヒトを含む哺乳類は「酸素呼吸」をして、生命活動を維持するようになった。そしていま、哺乳類は酸素がなくては生きていけないようになっている。
…しかしだ。
つい最近、なんと「哺乳類」の細胞呼吸に酸素を使ったもの以外に、あの太古のように「硫黄」を使ったものがあることを世界で初めて発見したという記事が出た。東北大学大学院医学系研究科の赤池孝章教授の共同研究グループの成果だ。論文は英科学誌ネイチャー・コミュニケーションズに掲載されたらしい。
「いまも哺乳類が硫黄呼吸をしている!?」
これは、ぜひお話を聞いてみたい。失礼を顧みず、取材の申込みをした。
失ったはずの「硫黄呼吸」
この太古の記憶が我々に残っている?
心良く取材に応じていただいた赤池孝章教授の研究室に赴く。
「硫黄呼吸って本当なんですか?」と思わず核心のところを聞いてしまった。
「現在でも海底火山の火口や温泉の噴出孔などでは酸素をまったく使わない微生物が生き残っています。何十億年と変わらない性質を保ち続け、原始生命のありようを伝えてくれています。酸素が生まれ時代が進むとともに、新たな呼吸の仕組みを獲得した生物が出てきました。酸素を使わない嫌気性の生物は深い海の底に追いやられたわけです」とやさしく教えていただける赤池教授。
「失ったはずの硫黄呼吸。この太古の記憶が我々哺乳類に残っているというわけですか」とたたみかけるように質問。
「まあ、まずそもそも呼吸とは何か?ということを理解していることが必要になります」と赤池教授は資料をもとに話をはじめた。
そもそも呼吸とは何か?
人が酸素を必要とする理由
呼吸?それは、口や鼻から空気を吸うこと、ではないでしょうか…
「そうですね。呼吸の過程には2種類あって、外界から酸素を取り込み、二酸化炭素を排出する肺呼吸と、取り込んだ酸素を利用する細胞呼吸があります」。
うーむ。肺呼吸は分かりますが、細胞呼吸というのがあるんですね。
「細胞呼吸というものは、肺呼吸で取り込んだ酸素を使って栄養分を水と二酸化炭素に分解し、エネルギーを生み出す過程を言います。つまり、呼吸とはエネルギー代謝のことなんです。これができなければ死んでしまいます。この仕組みは、酸素を利用する動物すべてが共通して持っています」。
エネルギー代謝。呼吸によってエネルギーをつくっていたんですね。
「進化によって、臓器は分化し、様々な高次機能ができるようになり、高度な社会生活を営むようになっています。それに伴いたくさんのエネルギーが体内で必要になっています。ATPをたくさんつくらないといけなくなっているわけです」。
おお、ATP(エー・ティー・ピー)!
…ATPとはアデノシン三リン酸(adenosine triphosphateの略)のことで、植物、動物および微生物の細胞内に存在するエネルギ分子。細胞の増殖、筋肉の収縮などにエネルギを供給するためにすべての生物が使用する化合物だ。生物体内の存在量や物質代謝におけるその重要性から「生体のエネルギー通貨」ともいわれている。
ATP(エー・ティー・ピー)とはいわゆる「生体のエネルギー通貨」ですよね。
「そうです。生きていくためにはこのATPをつくり続けないといけないのです。このATPをつくる代謝には、大きく3つのステップがあります。解糖系と、TCA回路、そして電子伝達系です」。
まず、「解糖系」とは、食べ物を消化器系で分解し生成したグルコースをピルビン酸などの有機酸に分解し、グルコースに含まれる高い結合エネルギーを生物が使いやすい形に変換していくための代謝過程を言う。
次の「TCA回路」とは、「ピルビン酸」から「クエン酸」、「フマル酸」、「リンゴ酸」などに変換しながら、「NADH2(ニコチンアミドアデニンジヌクレオチド)」や「FADH2(フラビンアデニンジヌクレオチド)」などの還元型化合物を作る過程で、細胞のミトコンドリア内で行われる。
そして、最後の「電子伝達系」。「NADH2」や「FADH2」などから、様々なタンパク質複合体を使って「ATP」を作る過程のことで、これは、ミトコンドリアの内膜で行われる。
ATPはこの「電子伝達系」で主に作られている。
そこでは、
①還元剤「NADH2」や「FADH2」から電子が移動する(酸化還元反応)
↓
②反応によってできたエネルギーで水素イオン(プロトン)がマトリクスの外へ移動
↓
③マトリックス内外で水素イオン(プロトン)勾配(膜電位)ができる
↓
④マトリクス内へ水素イオン(プロトン)が移動するときのエネルギーでATPが作られる
という一連の流れが起こっている。
「解糖系だけでもATPができますが、機能がだんだん高度になっていくうちに、解糖系で作られるATPだけでは不十分になってしまい、酸素を使う新しい代謝経路としてTCA回路と電子伝達系が生まれたと言えるでしょう」。
そして大事なことは、酸素が「電子の最終受容体」として機能していること。すなわち酸素がなくなってしまうと電子の移動が起こらなくなってプロセスが止まってしまう。
それはつまり死を意味する。生命活動ができなくなってしまうのだ。
うーむ。ポイントは電子を受け取る「受容体」が必要ということか…
活性硫黄分子の発見で
硫黄研究は新たなステージに
「ということで、酸素によるエネルギー代謝としての呼吸については分かってもらえたと思います。そしていよいよ硫黄です」。
硫黄(元素記号:S)は酸素と同じ第16原子族に属し、生体にとって必須元素である。生体内では、アミノ酸であるシステインやメチオニン、ビタミンB1などの構成成分として利用されている。
毒性ガスと知られる硫化水素(H2S)は、実は血管機能の調節や炎症抑制、神経機能の調節など様々な生理活性を有することが近年報告されている。
一酸化窒素や一酸化炭素の研究を続けてきた赤池教授のチームでは、第3のガス状メディエーターとして硫黄に注目してきた。
「しかし、生体内ではほとんど硫化水素イオン(HS-)の状態で存在すること、そもそも硫化水素自体の化学的反応性(特にその求核性)が極めて低いこと、またイオウは酸化還元状態によって様々な多量体構造をとることから、ガス状の硫化水素そのものが本当に生理活性を有しているか疑問視していました」。
硫黄を中心に赤池教授のチームの研究は進んだ。そして、その研究の中で注目したのが「システインパースルフィド」などの活性硫黄分子(reactive persulfides)だった。
…ここで、「活性硫黄分子」のお勉強。
活性硫黄分子は通常のチオール(-SH)基に複数の硫黄原子が付加したポリサルファー構造(-Sn)を有する化合物である。(硫黄がいっぱいついているわけだ。)極めて高い求核性・抗酸化能を有している。酸素と類似した化学反応をいくつも行うことができるという特徴がある。
「最近の研究から、硫化水素は真のシグナル分子ではないと考えています。システインパースルフィドなどの活性硫黄分子こそがシグナル分子。硫化水素はその代謝・分解産物であると考えています」。
実際、活性硫黄分子が主要なレドックス制御因子として生理的な機能を果たしていることが明らかにされつつある。
この活性硫黄分子の発見により、硫黄研究は新たなステージに移った。
マウスにより硫黄呼吸を解明
哺乳類の生育に必要不可欠であると示した
「そして2014年に、哺乳類の体内でシステインパースルフィドが大量に存在していることを突き止めました。そして、システインパースルフィドの産生に貢献している酵素、システイニルtRNA合成酵素(CARS)を発見したのです」。
システインパースルフィドを生み出す酵素。このCARSには、細胞質に局在するCARS1とミトコンドリアに局在するCARS2があるという。このCARSの発見が「硫黄呼吸」の解明につながっていく。
「システインパースルフィドの生成に関係するミトコンドリアにあるCARSが破壊されている場合、通常よりミトコンドリアの膜電位が減少していることを発見しました」。
どういうことか?
膜電位形成はさきほど見たように、エネルギー代謝であるATP合成に大きく関わっている。もしかしたら、システインパースルフィドがなんらかエネルギー代謝と関係している!?
様々な実験を繰り返すことにより、システインパースルフィド」に電子伝達系の最後の過程で電子が渡され硫化水素イオン(HS-)になっていることが分かってきた。いよいよ、エネルギー代謝に活性硫黄分子「システインパースルフィド」が大きく関与していると考えられる。
さっそく研究グループは硫黄呼吸に必要な代謝機能の一部を不全にしたマウスを作成して実験した。
その結果、なんと生まれて3~4週目を境にして成長が著しく悪くなることが分かった。硫黄呼吸が哺乳類の生育に必要不可欠であると示すものだと立証できたわけだ。
「そこで我々は哺乳類における硫黄呼吸を提唱したのです」。
いよいよ「硫黄呼吸」だ。
「硫黄呼吸」とは、電子伝達系の最終的な電子受容体が通常の酸素ではなく、「システインパースルフィド」であることを示している。そして、硫黄呼吸は、酸素による細胞呼吸と同様にブドウ糖を利用してエネルギー代謝をする。
硫黄が酸素の代わりをする。
もともと酸素がなかった時代の「硫黄呼吸」の記憶を取り戻した瞬間だ。
エネルギーを作ることと毒を消すこと。
これを両立できるか?
しかし、ここで問題がひとつ出てきた。
「システインパースルフィド」に電子が受け渡されてどうなるかというと、酸素による呼吸で作られる「水」の代わりに、毒性のある「硫化水素」が排出されるとみられている。
エネルギーをつくることができるかわりに、「毒」も発生してしまうということだ。
世の中いいことばかりではない。
…しかしここからがうまくできている。
ミトコンドリア内には硫化水素のプロトンと電子をもう一度電子伝達系に戻す酵素(SQR)が存在することを突きとめた。哺乳類には硫化水素を分解するための酵素が備わっているというわけだ。
そして、分解して硫黄を取り出し、また硫黄呼吸で再利用されるという。つまり、「システインパースルフィド」を利用することで電子伝達系がサイクル状態になり、酸素の場合より効率良く電子伝達系を回せる可能性がある。
「この仕組みが解明されれ実証されれば、硫黄呼吸の全貌が証明できるわけです」。
赤池研究室では、現在「硫黄呼吸」のサイクルの実在を、具体的な実験データをもとに立証しようと研究を進めている。
様々な可能性ふくらむ「硫黄呼吸」の研究
医療での活用などが期待される
ヒトも含めた哺乳類の中に「硫黄呼吸」が残っている。これは生物の進化を解明する上でも画期的な研究成果だ。
通常の論理でいけば、「硫黄呼吸が先に出現し、その後酸素濃度の増加とともに酸素呼吸を行う生物が出現した」と考えられる。となると、もはや、酸素があるので、硫黄呼吸は必要ないはずだ。
哺乳類に硫黄呼吸があるとしたら、その意義は何なのだろう?
「嫌気的な状況下では硫黄呼吸が優先的に働くのかも知れません。胎児は強い嫌気的な条件にあるため、このステージでは酸素呼吸でなく硫黄呼吸でエネルギー生産を行っている可能性もあります」と話す赤池教授。
今後、硫黄呼吸のメカニズムが解明されれば、医療などでも活かすことができるという。
例えば、これまで、血液を作る幹細胞や一部の悪性のがん細胞などは酸素が少なくても生存していることが知られており、硫黄呼吸がこれらの細胞の維持や増殖に関わっている可能性がある。
赤池教授は、硫黄呼吸の解明が悪性のがんの治療や予防への応用の他、呼吸器・心疾患、老化防止といった幅広い分野への展開を期待していると話す。
また、硫黄呼吸を理解することで、寿命・老化のエネルギー代謝制御や低酸素状態(呼吸不全による低酸素脳症、宇宙での生活)での生命維持に貢献できるとも考えられている。
硫黄呼吸には、様々な可能性が秘められているわけだ。
…湯けむりの旅は、思いがけず太古の記憶の旅になった。
硫黄によって、自らの体に眠る原始の力を活性させる。
そして、もうひとつのエネルギー生産の回路をしっかり発現させる。
湯けむりと硫黄の香りにどっぷり包まれながら、ふとそんなことを考えている。