「いま」の中に生き続ける「古い」もの
東北大学片平キャンパス
東北大学は片平・川内・星稜・青葉山にキャンパスを持つが、片平キャンパスは明治40年(1907)東北帝国大学が創設された発祥の地。大学本部のほか、金研や多元研、電気通信研究所など世界レベルの研究所があり、明治・大正期の面影を残す建物、古くからの並木や樹木など学都仙台を象徴する存在感を示している。
創設以来の歴史を経てここにある片平キャンパスを見て感じることは、古いものがただ残っているということではなく、古いものを新しいことにつなげていこうとしている大学の強い意志が伝わってくること。「いま」の中に生き続けているから、「古い」ものの価値もいよいよ見えてくる。学び舎やキャンパスも、いまの時代に溶け込み、使われ、日常化していくことで、未来へとつながっていくのだと思う。
片平キャンパスはかつて全面移転という構想が計画された時期もあった。歴史的な建物をどのような視点で、どのように管理していくのか。足場が定まらなければ、決まるべくもないことだろう。キャンパスツアーの後の話の中で「片平キャンパス自体が、2000年代前半までは将来像について見通せない状況だった」と聞いた。
移転計画が変更され、片平キャンパスマスタープランが固まったのは2000年代後半。これで東北大学の片平キャンパスに対する考え方はゆるぎないものに。簡単に言えば、歴史的建造物の保全を大事に進めていくとともに、新築や改修をする際にも歴史的な建物との調和を図ることになった。2010年、正門からの通路の先にあった2階建ての旧本部棟は、元からあったようなクラシックな外観を持つエクステンション教育研究棟に生まれ変わり、2011年、北門に隣接した、かつての工学部金属工学科教室は、大正以来のスクラッチタイルの外壁を残して内部を改修、AIMR本館に姿を変えた。
この2つの建築・改築が、その後の片平キャンパスのあり方を示す大きな指標となったのではないだろうか。
創立110年目の今年5月、⽚平キャンパスは国交省後援の「都市景観⼤賞」都市空間部⾨特別賞を受賞(東北大学・仙台市)。歴史的建造物と新規建築物、緑豊かなオープンスペースが一体となった景観が形成されており、今後の大学キャンパスの保全・再生・活用のモデルとなり得ることなどが評価された。
また7月には⽚平キャンパスの歴史的建造物5件が、国の登録有形⽂化財への登録を答申された(10月27日正式登録)。
東北大学史料館では、これらの経緯をふまえ、秋季企画展示「片平キャンパスの過去・現在・未来」を開催し(12月15日まで)、その関連イベントとして「片平キャンパス建物ツアー」を10月と11月の2回にわたって実施した。
10月の開催は午前午後合わせて約50人の参加があったという。われわれが参加した11月3日はよく晴れて散策日和。午前の部だけで、ざっと35人以上の方が集まり大盛況。用意されていた資料もすぐなくなり、再度数を増やして配られていた。
案内役は、東北大学史料館の加藤諭准教授、東北大学総合学術博物館館長の藤沢敦教授、東北大学キャンパスデザイン室キャンパスデザイナーの小貫勅子先生の3人。参加者は2班に分かれ、先生たちは持ち場を分担して案内することとなった。
史料館にてバックヤードをめぐる
ふだんは入れない狭い階段と通路を通って、展示室裏側へ。書蔵庫には大学創設時からの学生原簿など貴重な資料が収められている。東北大学は実は、日本で初めて女子学生が入学した大学。創立6年後の大正2年のことで、その時の大学と文部省とのやりとりがわかる文書が残されている。ただし、この文書は史料館ではふだんレプリカを展示している。「きょうはせっかくなので本物をご覧いただきましょう」と、加藤先生が原本を見せてくれた。
東北帝国大学の第2代総長北條時敬(ときゆき)が、当時の文部省専門学務局長、つまり大学行政のトップだった松浦鎮次郎(しげじろう)から受けた文書。「元来、女子を帝国大学に入学せしむることは前例これなきことにて、すこぶる重大なる事件にこれあり、と書かれています。当時は東大も京大も女子を入学させていなかった。これは前例のない重大な事件なので、東北大学は勝手なことをしないように、という圧力をかけている文書なんですね」。
文書は8月9日に届いていて、最終的には総長が8月25日に上京して次官に面談したと記録には書かれている。「この2週間の間に東北大学では合格者を決め『官報』に発表されることになります。文部省とのかけひきの中で、女子の入学を決定したということがわかる文書と言えます」。
東北大学の建学理念のひとつ「門戸開放」。その理念を実践した気概が見えるようである。
ロマネスク風の優雅な建物
バックヤードから史料館2階の展示室に出てきた。ここは、もともと1926年(大正15年)に建てられた東北帝国大学附属図書館の閲覧室だ。
設計は当時文部省の技師だった小倉強によるもので、後に東北大学工学部建築学科教授となる。ロマネスク風の外壁と塔屋が特徴で、当時は東側に5階建ての書庫が接続されていた。その後、書庫は撤去され、図書館の機能も川内キャンパスに移り、いまは史料館展示室になっている。
「ご覧のように天井が高い空間ですが、現在の耐震基準ではもうこんなふうにはつくれないんです。ところどころに柱を立てないといけない。耐震改修の時には、できるだけ当時の形を残したいということで、裏側の壁の厚みを増やすことになりました。そのためバックヤードは、もともとのスペースの半分ぐらいになってしまった。通路や階段が狭いのは、そういう事情があるからなんです。そのかわり室内側の空間の雰囲気は当時のまま残したんですね」。
旧仙台医学専門学校の2つの建物
今回片平キャンパスで登録有形文化財として登録されたのは、まず最初に見た史料館。2つめは「旧仙台医学専門学校 博物・理化学教室」。現在は「本部棟3」として使われている。「ここは明治37年(1904)日露戦争の時にできたものですね」。この博物・理化学教室を通って、3つめの登録有形文化財「魯迅の階段教室」と呼ばれる建物に至る。
「仙台医学専門学校という建物は、南北に長くて渡り廊下でつながっているような校舎群でした。その後キャンパス整備の中で南北に分断され、さらに太平洋戦争末期昭和20年7月の仙台空襲の時には40%ぐらいの建物が焼失したんですね。かろうじてこの部分の建物は残りました」。
博物・理化学教室と魯迅の階段教室は今は隣り合って建っているが、実は階段教室は元の位置から移動しているのだという。
「階段教室はもともと博物・理化学教室の向こう側につながっていたんです。向きは180度変わっています。向きをぐるっと変えて、約30mほど移動させてこの場所に持ってきたんですね。壁面に設けられた屋根の断面のような形を見てください。博物・理化学教室の屋根の端と、この壁の屋根らしき形の部分が接続していたというわけです」。
魯迅の階段教室
さて内部に入らせてもらった。明治37年、単身ここにやって来た魯迅。おそらく建てられたばかりの真新しい校舎で一心不乱に医学の勉強をしたのだろう。内装は何度か手が入って変更されているらしい。史料館の調査によれば、当時の机の配置は中央部の机の列は教壇に対して水平だが、窓側の机は少し内側に向けられていたという。ある時期に今のようにすべて直線状になったらしい。
後方の壁面も、もとは中央部に凹んでいるところがあり、そこに幻灯機を設置して前方に投影していたのだそうだ。
「この教室をご案内する時に話すことがありまして。魯迅がこの教室で座っていた場所です。実は前から3列目のちょうどいまご婦人が座っていらっしゃるあたりと言われています。大学というのは座席が指定されているわけではありませんが、だいたいそのあたりに座っていたと伝わっていて、国内外の要人の方が見学された時にそのようにご案内するようになったと言われています」。
スクラッチタイルの豊かな表情
ここからは小貫先生の案内となった。旧仙台医学専門学校は東北大学で2番目に古い建物との説明を受け、中庭を通って北門から続く南北通路に出る。
「いま皆さんの両脇にスクラッチタイルの建物が2棟ありますが、右手の北門に近い建物はWPI-AIMRという研究所です。ここは大正13年(1924)に建てられた建物の外壁3辺を残して、中をいったん壊してラボとして建て替えました。片平キャンパス北門の顔として大正からここにあり、戦火も免れた建物をできるだけ残そうという趣旨で建て替えられたものです。一部天井にはガラス張りのアトリウムを設けるなど現代技術が駆使されています」。少し離れてみるとタイル張りのクラシックな建物の上部にサンルームのような構造が見える。まさに大正と現代の融合といった趣だ。
左手に見えるのは今回文化財として登録された4つめ。「本部棟1」と言われる建物だ。南北通路に面した部分は、現在は外国の研究員の滞在型研究施設として使われている。そこから曲がり角のRの部分とその先の建物に続いている。
「茶褐色のスクラッチタイルを用いた壁面、柱を強調して垂直性を意識した非常に端正なデザインで、片平キャンパスのひとつのシンボルともなっています。正面玄関の部分は石造りの柱を5本配した特徴的なものです」。
この本部棟1の建物は、昭和2年(1927)、7年(1932)、9年(1934)と3期にわたって建てられ、その後大規模な改修も行われて、現在に至っている。
創立25周年事業でつくられた通路
東北大学の正門は大正14年(1925)に御影石でつくられた。仙台城の方向を意識してつくられたと言われる。「正門から続くこの通りは東北帝国大学創立25周年を記念して昭和11年(1936)に整備されたものです。第6代本多光太郎総長の時代です。25周年事業のもうひとつの目玉が、この通りの正面に本部棟をつくるというもので、2階建の建物が建設されました」。
この旧本部棟はその後、増築、改築を繰り返して使われてきたが、平成22年(2010)に「エクステンション教育研究棟」として新しく建設された。大学のシンボルとして見えるような建物を建てようということで、通りの軸線上にタワーを設け、その上部に大学のロゴを入れたと言われる。「この通りの植栽は、25周年の時に赤松の並木をつくろうということで植えられたものです」。
魯迅先生像のところでは中国の方がよく写真を撮っているそうだ。このあたりが仙台医学専門学校の建物があった場所ということになる。このあたりの庭は片平キャンパスの中央部にあり、学都記念公園と呼ばれている。
「第二高等学校の中庭だったところがそのまま残っています。桜は、慶応元年に仙台に移住して来た鋳物師により寄進された枝垂れ桜が始まりと言われます。古くは北門から南に抜ける通りは桜小路と呼ばれていました。春はお花見で公開していますので、まだ来たことがない人はぜひ来年の片平キャンパスの桜を味わってみてください」。
公園の西側の通路で、既存の建物も歴史的建造物に合わせてスクラッチタイルを貼るなどのデザインを施していると説明があった。「ここも、もともと白っぽい普通の表情のない壁でしたが、歴史的建造物と調和するようにタイルを貼るなどして豊かな表情をつくっています。都市景観⼤賞の受賞もそんなことが総合的に評価いただいたものと思っています」。
戦火に耐えた貴重なレンガ造り
5つ目の登録有形文化財になる文化財収蔵庫。ここは藤沢先生が建物内外で説明にあたった。もともと旧制第二高等学校の書庫として、明治43年(1910)ごろに建てられたのではないかと説明があった。
仙台市内のこういう古いレンガの建物は、空襲で焼けたり、戦後次々取り壊されたり、いまこのあたりで残っているものはほとんどなく、非常に貴重な建物だそうだ。第二高等学校のその他の校舎は木造で空襲で全部焼けてしまい、この書庫だけが無傷で残ったという。
「東北帝国大学が旧制二高の建物をもらって使い始めたとき、このあたりは法文学部の建物でした。その法文学部に京大から喜田貞吉先生(歴史学)が、東北の研究をしようと赴任してきた。ところが来てみたら肝心の史料が何もない。がんばって集めて研究材料にしようということで奥羽史料調査室というのを法文学部につくった。その資料収蔵陳列を行う場所としてここを使うことになったんです。主に考古学関係の土器や石器を収蔵していて、戦後、文学研究科の中に考古学研究室ができ、引き継いで現在に至ります」。
内部の造りは階段も含めて明治の終わりからほぼ変わっていないという。「陳列棚は、上部の立っているところに大きい物を入れ、中段の上から見れるところには小さい物を入れ、下段に引き出しがあって細かいものや関連資料を入れるという3段構成のつくりかたです。大学がここをつくる時にヨーロッパのスタイルを参考にして特注でつくったものと思われます」。
東北大学史料館
仙台市青葉区片平2-1-1 東北大学片平キャンパス内
TEL 022-217-5040
開館日 月曜日~金曜日
(祝日、夏期休業日、年末年始除く)
開館時間 10:00~17:00
※12:00~13:00は閲覧室休み
http://www2.archives.tohoku.ac.jp/index.html