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美しい海を取り戻すには人の心に木を植えることー
世界を変えた「カキじいさん」のこれまでとこれから【前編】

はじめにことばありき——

聖書でいちばん有名な文言をひきあいに、その人は30年にもわたる活動を振り返る。
ものごとのはじまりには、多くの人の心に届く「言葉」が絶対に必要だと。
畠山重篤さん、75歳。
宮城県北部、唐桑半島の南に位置する舞根(もうね)という小さな入り江で牡蠣や帆立の養殖を手がけている。ゴム長靴にジャージのズボン姿、シャツの袖を腕まくりして浜と水産加工場を慌ただしく行き来しながら、一方で「来週は京都で講義があるんだ」とさらりと話す彼は、NPO法人「森は海の恋人」の理事長であり、京都大学フィールド科学教育研究センターで社会連携教授もつとめている。

活動を始めて30年、「当時体験した子供たちが親になり、わが子を連れて植樹祭に来てくれます」と畠山さん

 

「森は海の恋人」

今や日本はおろか世界へも知れ渡っているこの環境保全運動は、畠山さんが、舞根の漁師仲間と平成元年に始めた植林活動がスタートだ。きっかけは昭和40年代、高度成長という大きな社会変化の陰で畠山さんの暮らす気仙沼湾の水環境が悪化しはじめたことにある。海には赤潮が頻繁に発生し、牡蠣の成長もどんどん悪くなっていった。「海を捨てて陸に上がる」ー漁業を辞める仲間が増えていくなか、それでも畠山さんは海に向き合い続けた。

舞根に完成した「舞根森里海研究所」は、環境教育や研究活動など様々な活動拠点として利用されている

「私は子供の頃から海の生き物を遊び相手にしてきたから、それらから離れて暮らすことなんて考えられなかった。では、赤く汚れた海を青い海に戻すにはどうすればいいのか…。それを教えてくれたのが牡蠣でした」。
父がはじめた牡蠣の養殖業を、小学生の頃にはもう手伝っていたという畠山さん。海は一家が日々の糧を得る場所であり、多感な少年時代の唯一の遊び場でもあった。身の回りのあらゆる自然を観察対象とし、家に帰れば「シートン動物記」や宮沢賢治の世界観に熱中する。そんな畠山少年にとって、牡蠣は最大の先生にもなった。

「よく『牡蠣のごとく口を閉ざす』なんて例えられるけど、ほんとうは牡蠣はすごくおしゃべりだし、われわれ人類がどう生きていくべきかをちゃんと知っているんですよ」。

牡蠣は、川の水が海に注ぐ河口付近の汽水域で生育する。エサは海中に浮遊する植物プランクトンで、この植物プランクトンの成育に大きくかかわっているのが上流域の広葉樹の森で生成され、沢水と一緒に運ばれてくる鉄分であるという。今はそれが「フルボ酸鉄」という物質であることが科学的にも解明されているが、畠山さんら漁民は、牡蠣の養殖には川の水が大切で、川の安定には上流の森林が大切であることを経験的に感じ取っていた。
それを確かめるように気仙沼湾に注ぐ大川上流を訪ね歩くなかで、畠山さんは流域で営まれる暮らしの変化を目の当たりにする。農薬の使用で生き物の姿が消えた水田、そして針葉樹に取って代わられた山々は手入れをされず荒れ果て、雨が降れば土砂が川に流れ込み海までも赤くした。
このように、海の環境悪化は人間の生活が原因であることは明らかだったが、大川流域は宮城県・岩手県に渡るスケールで、行政だのみでは状況の改善は一向に望めないことは明らかだった。そこで畠山さんは漁師仲間に声をかけ「牡蠣の森を慕う会」を結成し、大川上流の室根山麓に気を植えることをはじめたのである。

舞根湾に浮かぶ牡蠣の筏。復興のシンボルであり、子どもたちの環境教育の場にもなる

 

人々に理解してもらうには
「言葉の力」が必要だった

「最初はとにかく『ことを起こす』のが大事だと思ったんです。山の人が山に木を植えてもニュースにならないけど、漁師が植えたら注目してくれるだろうとね。でも、いちばん大事なのは海と山との関係を流域に暮らす人々に理解してもらうことで、それには『ことば』が重要なことも気づいていました。わかりやすく、人の心を動かすスローガンが必要でした」。

当時をそう振り返る畠山さんが、大川流域の手長野という集落に生きた田園歌人の熊谷武雄(1883ー1936)を知り、その孫娘にあたる熊谷龍子さんと出会ったのは必然だったのかもしれない。畠山さんは続ける。
「武雄の代表歌に、このような歌があります。

手長野に 木々はあれども たらちねの ははそのかげは 拠るにしたしき

ははそ(柞)とはコナラやクヌギなどの古称です。武雄が自然界の母『たらちね』に広葉樹の雑木林をなぞらえたように、百年も前に生きていた人たちの方が、流域の山をきちんと保全していれば農業も漁業も回っていくことを分かっていた。龍子さんもそうでした。私が持参したとれたての牡蠣を食べた瞬間、パッと『柞』の意味を理解したんです。海にも来てもらい、船の上から郷里の山である手長山や室根山を見たことでインスピレーションがわき、歌が生まれました」。

森は海を海は森を恋いながら悠久よりの愛紡ぎゆく

そしてこの歌から、あの「森は海の恋人」というスローガンが生まれ、活動は全国各地に広がっていったのである。がむしゃらに行動をおこしても、あるいは理詰めで押し通そうとしても、人の心は動かない。畠山さんたちは言葉の力を信じていた。
「ものごとを起こすには活動家だけではだめ。いい詩人が仲間にいることが大事なんです」。

「牡蠣をあけてみれば、その流域の人がどんな暮らしをしているかもわかるんです」と畠山さん

 

大事なのは“ほんの少し減らす”こと
子どもたちへの環境教育プログラム

そんな畠山さんが、植林活動とともに情熱を傾けてきたのが、子どもたちを海に招いて行う体験学習だ。上流の岩手県室根村(現一関市室根町)の小学校の児童を招いたことをきっかけに、この30年間で1万人を超える子どもたちが舞根湾を訪れた。牡蠣のタネはさみ(ロープに種牡蠣のついた帆立の殻を挟む)など海の仕事も体験するが、メインイベントは船の上で繰り広げられる。なんと、海にプランクトンネットという採集器具を投げ入れ、引き上げたガラス瓶に溜まったプランクトン入りの海水を一口づつ飲んでもらっているという。「ほんの思いつきだった」と畠山さんは笑うが、その体験こそが子どもたちに大きな変化をもたらした。

 

子どもたちからは思わぬ質問も飛んでくる。「牡蠣の餌はどうするんですか?という質問があった。養殖は、餌を与えていると思っているんだと知り、ショックを受けました」

 

「牡蠣がどんな味を味わっているか体験してみないか?と子どもたちに言いました。恐る恐る口にした男の子が『キュウリの味がする!』と言った途端、他の子どもたちも安心して飲んだんです。そこで子どもたちに、川の水に溶け込んでいる色々な成分を最初に取り込むのが植物プランクトンで、大川に汚いものを流せばそれを飲んだことになると教えました。そのあとは内海に戻って牡蠣を食べてもらい、体験施設で動物プランクトンなどの観察をしています。その上で食物連鎖の話やあの水俣問題など、いろいろな話もするのです。子どもたちはこの体験を通し、我々人間がどういう存在であるのかを知っていきます」。

体験学習でも使ったプランクトンネット、真ん中の窓からプランクトンを目視できる

 

体験後、子どもたちから送られてきた1万通もの感想文のことを、畠山さんは「どの作文も字が踊っているようだった」と嬉しそうに話す。残念ながらそれらは東日本大震災の大津波で全て流されてしまったが、書かれていた文言ははっきりと覚えているという。例えばこんな感想だ。
「いつも使っているシャンプーの量を半分に減らしました」
「お母さんにも洗剤の量を減らすように話しました」
「お父さんに田んぼにまく農薬や除草剤を減らして欲しいとお願いしました」
この、“ほんの少し減らす”が大事なのだと畠山さんはいう。自然環境を守るために暮らしを180度変えるのではなく、いつもの生活習慣をほんの少し改める。そんな意識のありようを促していくのが、畠山さんたちが考える環境教育プログラムなのだ。
「室根山麓で行ってきた植林も現在までに20ヘクタールに広がり、樹木も大きく育っています。しかし広大な自然からすれば、それは点にしか過ぎないでしょう。私たちは植林による効果を追求する以上に、教育のなかで環境意識を浸透させていくことが大事だと考えています。山に木を植えるように、子どもたちの心に木を植えていきたいですね」。

 

後編はこちらから

 

NPO法人・森は海の恋人
宮城県気仙沼市唐桑町東舞根212 舞根森里海研究所
www.mori-umi.org