地域に受け継がれてきた、“庶民の酒”が世界へ。
遠野で造られる、魅惑のどぶろく【後編】
前編は【こちら】。
熱気あふれる祭り会場を後にした我々は、車に乗り込み、どぶろく製造免許第一号を取得した江川さんの元へ向かうことに。現地の方のアテンドについていくと車はまちを離れ、みるみる山奥へ。
「これ案内してもらわなかったら、絶対迷ってますね」
そんなことを車中で話していると、細い山道の先に開けた田んぼが現れた。一軒の民家と小さな工房らしきものが目に入る。ここが目的地、江川さんの営む「農家民宿MILK-INN」だ。
「こんにちはー」そう言ってドアを開けると「あー。これは遠い所から。さ、早く中入って」。
あたたかい笑顔で迎えてくれたのが江川さんだった。
前例がなかった、どぶろく造りの道。
「いやー、ここでは何でも自分の手でとれっけど、酒だけはなかったから」
たくさんの表彰状や写真に囲まれた和室で、どぶろく造りのきっかけを話す江川さん。目の前の田んぼで収穫できるお米をはじめ、牧場の牛乳、周囲の大自然で採れる山菜や川魚、狩猟免許をもつ江川さんは熊や鹿の肉まで調達できる。
「民宿のお客さんには、この土地の料理を、この土地の空気を感じながら食べてほしいからね。その時にはやっぱりここのお酒があった方いいべ」と、携帯電話の電波も入らない、この地でしか体験できない魅力を提供している。
どぶろく特区第一号・遠野市での製造免許第一号。それは、つまり前例がないということ。税務署へ製造免許を申請するだけでも大変な労力と時間がかかったそうだ。
「市役所の職員が二人うちにきてね、一緒に申請書類をつくったのよ。でも、当たり前だけど職員にとっても初めての経験だから、ひとつ書いては確認して。一文字でも間違えてたらやり直しなんだから。最終的にはすごい厚さになっちゃって」と江川さんは当時を振り返った。
江川さんの人柄がにじみ出る「開拓」。
2003年、ようやく免許が交付され、盛岡の工業技術センターで酒造りを学んだ江川さん。そして、完成したどぶろくの名前は「開拓」。江川さんの父親が戦後入植し、何もなかった土地を切り拓いて耕した田んぼ。そこに実るお米で造った、どぶろく。まさにこの土地と文化にふさわしいネーミングだ。
この「開拓」は、どぶろく特区の規制緩和を進めた、当時の小泉首相も味わったという。
「小泉さんは一言“うまい!”って言ってね。まあ、マスコミの前だし、そう言うしかねぇべ」と江川さんは大きな声で笑った。
「子どもを育てるように時間をかけることで、味わい深く造っている」
そう江川さんが話す「開拓」は、もろみをミキサーで“つぶす”ことで濾さずとも、なめらかな飲み心地に仕立てている。その味わいは、酸味が抑えられていてマイルド。しかし、ベタついた甘さはなく、すっきりしている。
江川さんのやさしく、チャーミングな人柄がにじみ出ているようだった。
農家民宿「MILK-INN江川」
遠野の居酒屋で、衝撃的などぶろくに出会う。
一日目の取材を終え、いくつものどぶろくを前に「待て!」状態だった、お酒大好き編集長、カメラマンと共に、地元客で賑わう遠野駅前の居酒屋に訪れた。
そこで出会った、衝撃的などぶろく。それが翌日取材する、佐々木要太郎さんの「どぶろくスタンダード」だった。
「吹き出すかもしれないから、こっちであけますねー」
そう言って店員さんが瓶の詮を緩めると、シュワシュワ発酵しているどぶろくが勢いよく瓶内を上がってくる。こぼれる直前に詮を閉め、一旦、落ち着かせてから、再び詮を緩ませ、という作業を繰り返すこと数回。やっとグラスに注がれる、いきいきと元気などぶろく。飲んでみて、また驚いた。やさしく弾ける、まろやかな酸味。どぶろくのイメージを覆す、爽快な飲み心地だった。
“こんなどぶろくあるんだ!”
その洗練された味わいとともに、明日への期待も高まった。
独自のどぶろく造りで、遠野から世界へ。
南部建築の米蔵をリノベーションしたという店内で話を聞いているとき、そのバイタリティと緻密さに、ふと、昨夜のどぶろくの力強い発酵と繊細な味わいを思い出した。
ここは民宿レストラン「とおの屋 要」。店主で料理人の佐々木要太郎さんにお話を伺った。
隣接する「民宿とおの」の四代目でもある佐々木さん。どぶろくの製造免許を取得したのは約14年前、22歳の時。「民宿とおの」として、どぶろくの製造免許を取得するため、父親に頼まれてのことだった。
実はその頃、東京で就職しようと考えていた佐々木さん。しかし、お酒のことを学ぶにつれ、日本酒にしかない発酵技術など、酒造りの奥深さと魅力にのめり込み、遠野でどぶろくを造ることを決めた。
「あれは忘れもしません。2004年6月のことでした」
佐々木さんが初めて造ったどぶろくを、民宿に泊まっていたお客さんに飲んでもらった時のことだった。
「酒造りに対して、あまりにも勉強不足すぎる。酒造りを馬鹿にするな!」
そう怒鳴ったのは、新潟にある酒蔵の杜氏。酒造りに対する姿勢を厳しく指摘された。
「今思うと、その方の仰るとおりで…」その出来事に心を改め、どぶろく造りへの決意を固めた佐々木さんは、翌日、モヒカンだった頭を丸め、当時吸っていたタバコも、それ以降一本も吸っていないという。
それから13年。奈良の酒蔵で修行を積むなど、全国の酒蔵を巡り、多くの杜氏に技術や歴史を学びながら仕上げた独自のレシピによるどぶろくは、いまや日本はおろか、香港やスペインなど、世界中で評価される味わいになった。
「いつか海外のトップシェフやワイン醸造家に、“料理として”どぶろくを認めてもらいたい」と話す、佐々木さん。どぶろくにかける想いと現在の活動を伺っていると、その目標も遠くない所にあると感じた。
10年の歳月をかけた、理想の土づくり。
農家が造ることの多いどぶろくだが、佐々木さんは料理人のスタンスから、「エレガンスさとバランス」のある味わいを追求している。どぶろくの“素朴”なイメージとは真逆だが、昨夜、飲んだ味はまさにそのとおりだった。
何より発酵の力強さに驚いたことを伝えると「うちのどぶろくは瓶詰めしてから3年間発酵し続けるんですよ」と教えてくれた。長期間、酵母菌が活性化したまま生き続けるというどぶろくは、時間が経つにつれて、味わいに深みがでるため3〜6ヶ月熟成させてから出荷されるそう。たしかに、昨夜飲んだ瓶に貼られた製造年月日のシールには数ヶ月前の日付が記されていて、不思議に思ったのだ。
その発酵の強さを生み出しているもの、それは「すべて土の力」だという。どぶろくの原料となるお米は、稲の毛細根から地中の栄養を吸い取ることで実る。
「人間と同じで、お米も生まれ育った環境、土で変化します。いい土づくりのためには、“土をどうするか”ではなく、“土がどうなりたいか”が大事」と話す佐々木さんの土づくりに対するこだわりは人並み外れている。
「雑草は土の先住民。人間はそこに間借りさせてもらっているようなものです」と自らの考えを話す佐々木さん。
「雑草を農薬で排除すると、土が栄養を失って稲は弱くなり、収穫量も少なくなります。そして、その栄養を補うために肥料を入れることで、また土が本来の力を失っていくという…完全な悪循環です」
佐々木さんは、土が本来もっている力を引き出すために、残留農薬や余計な栄養分を一切抜くことにした。近道のない、手間と根気の必要な作業に明け暮れ、理想の土へ戻すだけでも10年かかったという。その土でたくましく育った無農薬・無肥料のお米によって、他のどぶろく、日本酒と一線を画す、発酵の強さがつくられるという。
何故、佐々木さんは妥協することなく、どぶろく造りに取り組むのか。それは「ようやく日の目をみたどぶろくのクオリティを高めないと、また遠野の資源が失われてしまう」という地域への想い。
そして現在、さまざまな課題に直面する、米農家をサポートしたいという想いだ。
米農家の未来を見据えて。
生まれ育った、遠野の文化や自然の影響を受けているという佐々木さん。レストランの料理には、この寒暖の差が激しい風土が育む食材を積極的に取り入れている。
どぶろくの原料となるお米にも、1935年に遠野で生まれた在来種「遠野一号」を使用。このお米の存在を知った佐々木さんが、北上の農家の方に頼み込み、わずか5gの種籾を譲り受けたことから、こだわりのどぶろく造りは始まったのだった。さらに盛岡の農家が無農薬・無肥料でつくる「五百万石」も原料として取り入れ始めた。
それは、どぶろく造りを超えて、米農家の現状を危惧しているからだ。
「実はこういった取材は、これまであまり受けてこなかったんです。ただ、やはり自分の言葉で世の中に伝えなければと思いました」
そう真摯に語る、佐々木さん。
「人々の健康のために、無農薬・無肥料でお米を栽培している農家さんの労力に対する評価が低すぎます。“五百万石”もそうでした。農薬を使わないことで、安全な自然本来の味わいのお米をつくっているのに、虫害で少し見栄えが悪いというだけで等級外の評価を受けてしまいます。その足もとを見て、酒造メーカーが低価格で買い叩いているんです。こういった現状を少しでも改善していくために、適正価格で仕入れることにしました」
自ら無農薬でお米を育てる大変さを身をもって知っている佐々木さんだからこそ話せる、米農家の現実、農産業の課題…。
2017年、佐々木さんは「どぶろく農家プロジェクト」を立ち上げ、地域の米農家を支援する活動を始めた。日本中に自らのどぶろく造りのノウハウを活かした“マイクロどぶろく製造所”を広める計画も進行中だ。
「“どぶろく”、“料理人・佐々木要太郎”を通して、人々のために真面目に努力している農家が、正しく評価される社会になってほしいと思っています」
佐々木さんのまっすぐな視線は、農業の未来を見据えていました。
醸し田屋
とおの屋 要