1. HOME
  2. ブログ
  3. house
  4. people
  5. 自らの工房をつくりながら、 いまも大工道を極め続ける棟梁。 [大工 千葉隆平物語]

自らの工房をつくりながら、
いまも大工道を極め続ける棟梁。
[大工 千葉隆平物語]

その頃、大工と言われる人が高齢化して、住宅着工が増えているのに人数は減っていた。大学で建築を学び、住宅メーカーに就職した千葉隆平さん。初めは施工管理の仕事、つまり現場監督だったが、住宅メーカーに自社内で住宅を施工できる人材を育てようという動きが出ていて、その部門への異動があった。

千葉さんは大学で建築を勉強しても身についてなかった、と自分で言う。建物のことを知らずに監督をできるのかという思いもあり、働きだしてから、いろいろな勉強を始めた。家づくりとはどういうことなのか、そもそもどこから始まったのか。縄文時代、古代の寺院建築、江戸時代の武家屋敷・数寄屋、そして町屋や民家。こんな曲がった木を組むのか。この柱一本一本に、こんな力がかかっているのか。木を自分の狙い通りに自在に組んでいくのが大工の仕事なんだ、と今さらながら、そのすごさに圧倒された。仕事で疲れて帰った日も、歴史の本や図鑑による知的冒険が楽しかった。

住宅建築は、昭和40年代以降も依然建築ブームが続いていて、いわゆるハウスメーカーが登場し、プレカット工法も開発され始めていた。平成になると、大工の減少とともにプレカットが急速に普及し、住宅もひとつの工業製品のような状況を呈していた。千葉さんが働いたのは、平成がしばらく過ぎた、まさしくそんな時代だった。配属された施工部門では、プレカットがシステム化されていて、現場に運び込まれた窓枠や壁パネルを所定の位置に効率よくビスで打ちつけ、金具で固定していく。自らの意志で学習することによって強烈な刺激を受けた大工の世界とは違っていた。これを建てる人材を大工というのなら、自分はやらなくてもいい。働き始めて7年目、それが千葉さんが出した結論だった。

その時にはまだ、明確な次の道筋はできていなかった。さしあたって建築雑誌で募集していた会津を中心とした古民家の解体作業(手ばらし)に加わることができた。解体と言っても、もし次にまた再生できるかもしれない柱や梁などの古材を取り外すという意志を持って行われるならば、重機で躯体まるごと壊してしまう解体とは訳が違う。さまざまな土地での解体と関わった。千葉さんからすれば、宝物の発見のようなできごとだった。木組み、板の貼り方、壁のつくり、どれもこれも技がなければできあがらないもの。間近で人の目にふれることのない梁にも、手斧(ちょうな)で削り出した痕があり、結果として木の味わいが特徴づけられていた。本や図鑑の写真で感激したもの、見たかったものが現実のものとして目の前に現れる。あるいは、そのまま体験できる。皮肉なことに「ばらせばばらすほど、つくりたくなった」。これが大工を目指す、ひとつのきっかけになった。だが、ほんとうに千葉さんが「ターニングポイント」と思ったのは、自分のある先入観が覆された時だった。

大工というのは高卒ぐらいで、ひょっとしたら中学を出たら弟子入りするもので、それ以上になったらもう遅い。ふつうにそう思っていたし、周りの先輩などもそう話していた。だが、解体現場で共に仕事をした大工の中に、40代にして大工の弟子入りをしたという人が2人もいた。誰が何と言おうと、この事実が、40歳でも弟子入りできると告げている。それなら、まだ30前の自分はできるのではないか。情けない固定観念を持っていたものだ。ほんとうに大工になりたいと思えば、その道筋を探していつでもなればよかったはずなのに、時代や土地柄や環境のせいにして、勝手にあきらめていた。そう考えるに至った千葉さんは、環境がないなら自分でつくっちゃえばいいんじゃない、とついに大工の道に足を踏み入れた。

 

大工とは何者なのか

千葉さんが目指す大工とは、いわゆる墨付け刻みなど、すべて一から手作業で行う技を持った大工職人だ。見習いで雇ってくれるような大工団体などは当然のように見当たらなかったので、伝手を頼ってすでに引退していた大工棟梁(当時75歳)に声をかけた。自分を弟子に使ってもらって建ててください、棟梁の手間賃や資材などは全部用意します、建築士免許は持っているので建築申請は自分でできます、という話をして建物を建設することにした。ふつうあり得ないような、途方もない発想だけれども、千葉さんが言うには、7年間働いてとくに何も使ってないので、お金は少しだけ貯まっていた、古材も解体などの現場で調達するなど折りにつけ集めていた、と淡泊な説明だった。

建てたのは、宮城県名取市にある作業場一棟。弟子として仕事をしながら、いずれ自分が大工として作業をするための作業場をつくり始めたのだ。これが15年前のこと。その後ここで修業をしながら、他にも大工や解体、改修を手伝わせてもらうなど、外の仕事のつながりも増やしていった。いま現在、千葉さんは、この作業場を大工の個人営業の事務所として使いながら、同じ土地に大きな工房兼住居の母屋を単独で建てている。

ここは、もともと母方の祖父母の家土地があり、林業や農家の家系でもなく、ふつうの核家族で家も小さかった。親戚が来るとごった返してたいへんだったそうだ。その後祖父母も他界し、親戚もそれぞれの家庭を持ち集まらなくなる。また集まれる場所がほしいね、とつくり始めた。つくり始めると近所の人も興味を持ってくれた。遠方からも見に来てくれたりするようになった。どうせなら、来たい人がいつでも寄れる、みんなが集まる場所、という思いで、つくり続けているのがこの母屋だ。

ここに作業場をつくり、いま母屋をつくっている、もうひとつの理由がある。それは千葉さんが大工という技で仕事をする人、技能者として生きていこうと決めた時から、技能者であるなら、技を磨く修業の場であり教材でもある現場がいつも目の前にあってほしいと考えたからだ。作業場から建て始めて、15年。「いつ、でき上がるの?」と、よく聞かれるそうだ。

 

昔、祖父が使っていた古時計。故障した時に隣村の知り合いに修理を頼んだら直してくれたのでそのまま差し上げます、となったらしい。その後祖父は亡くなったが、千葉さんがここで建物をつくり始めたら、その隣村の人が「あんたは、お孫さんかい?」と訪ねてきた。「爺さんはくれると言ったが、こちらは預かったつもりでいた、お孫さんにお返しするよ」とこの時計が戻ってきたという。

ここを建てているやり方は基本として、いろいろなところに出向いて集めていた古材や、捨てようとされていたものを回収してきた木材や建具を再利用するということ。「図面通りに部材を入れるだけでしょ」という訳にはいかない。枠に入れようとする板材の幅が大きければ、その分切って使うか、それとも板材のよさを残して外側の枠のつくりを変えるか、ということになる。建築申請をしているので基本的な計画は変わらないものの、部分的な設計方針が変わったり、使う材料や仕上げ方法が変わること、判断に悩むことや思わぬ難題に出くわすことはいくらでもある。想像して、工夫して、技を使って、挑戦してみる、だめなら他の方法を探す。考えただけで気の短い人は、あっと言う間に匙を投げるかもしれない。

 

土間と板の間のある大空間

敷地の北側に作業場・事務所があり、すぐ接して母屋が建ち、南側に三角形の庭を残す。南面玄関から中に入ると、すぐ前と左側は板は貼ってあるもののいわゆる土間空間。少し高くなって広い板の間があり、その奥に畳スペースと床の間がある。前の土間の正面はキッチンスペース。

手前が玄関入ってすぐの土間、右側に見えるのがキッチンスペース。左側に板の間と、その奥に床の間のある和室というつながり。

 

最初にうかがった時、玄関の引き戸を開けると、前の土間に小さい小屋があって驚いた。もともと隣りの岩沼市でのイベントへの出店依頼があった時に、店じゃないのでとくに出品するものもなく、この小屋をつくって使ってもらったという。千葉さんとしては、これは古民家で使われていた古材を組み合わせてつくった移動式の建具見本のようなことを考えているらしい。柾目(まさめ)のしかも芯去り材というよほど太い杉からしか取れない材を使った板、昭和初期のガラスや戸車が入った引き戸。壁のつくり方と柿渋色など色味の見本としても使いたいと言っていたが、原形の屋台のまま、また出動していて、いまはない。

1回目の取材の時にあった移動式屋台小屋。四方の腰壁のつくり方が違っていて、建具見本となっている。

前の土間と、板の間、キッチン。この広い空間の中で、お茶やお酒を楽しみながら、小屋組みや建具談義をしたり、誰かに来てもらって話をしてもらったり、いろんな人が集まってこれる場所になればいいかな、となんとなくのイメージは話してくれたが、具体的にはまだ思案中。

床の間は、つくり方自体が伝統的な床の間の形式や納まりに倣ったものではなく、床柱に水平に架かる部材に、梁として使われていた曲がった古材が使われている。右側の柱に曲がった梁が斜めに刺さり、そこから左に1mのところに梁を支える柱を垂直に立てる。ホゾでつくられているため、滑車で梁を上下させて、うまくストンと納まりをつけなければいけない。

 

床の間にこの曲がった梁を使おうとしている。

畳スペースは、畳の寸法からすると、少しだけ板畳を設けなければいけなかった。2枚の長尺の欅(けやき)材を実(さね/板の合わせ目の加工)をつけて組み合わせ、畳の厚みと合わせるため根太(ねだ)を敷いて、欅材を置いている。

2回目の取材の時、作業場の外で千葉さんは欅材の加工をしていた。

 

古材を利用した巨大な梁

この家の構造を特徴付けているのが、小屋組みに使われている巨大な梁や桁。その見事な力強さに、ただただ圧倒される。梁などの古材は、矢本町にあった豪農の分家の解体現場から持ってきたものだという。ここは千葉さんが手がけた、ほかの地域の農家のつくり方とは異なる特徴を持っていた。この矢本町の家は県南まで下りてきた気仙大工による建築だったのではないかと、千葉さんは推測している。至るところに高度な技を使った跡が見られ、気仙大工が工夫し用いたとされる大隅梁(おおすみばり)というやり方が施されていたからだ。

1階から階段を上がって頭をぶつけないようにくぐって入ったところにロフト的な空間が設けられている。そこからの眺めがこの写真。

大隅梁とは、小屋組みの四隅に斜め45度に組まれている梁のこと。寄棟(よせむね)茅葺きの巨大な小屋組みを支えるために、昔の農家の土間には壁のさらに内側にいくつかの柱を立ててていたものを、大隅梁を組むことによって、その柱を減らして空間を広く使えるのだという。大隅梁自体が、ほかの梁や長手方向の常屋梁をも支えている。もうひとつ横揺れを抑える役割もある。壁に入れる筋交いの水平版と考えればいいか。この家は、震災の時の地震に耐え、構造強度は実証済みだ。大隅梁の小型のものは、火打梁と言って現代の建築基準でも使われる。

これが大隅梁。交差する梁の複雑な力を、上に反り曲がった大隅梁が支えている。

高度な技を持った大工集団、気仙大工は奥州藤原氏が平泉をつくる時に都から大工が大勢来たが、頼朝征伐の際に離散し、気仙地方に身を潜めた集団から生じたのではないかという説など、研究者の間でもさまざまな説があるという。千葉さんは、この腕利きの気仙大工の一部が仙台藩の南部にも来たのではないか、あるいは在方の職人に伝わったということもあるのではないかと考えている。母屋のさまざまな梁や構造材は、矢本の農家や別の蔵で使われていたものなど、多種組み合わされている。本来寄棟につくられる大隅梁を切妻の母屋に使ったのは、気仙大工の歴史や技に千葉さんが敬意を表してのことかもしれない。

 

 三段階の土壁を見る

この家の壁は、当然のように伝統工法による土壁でつくられている。土壁は、おおまかに荒壁、中塗、仕上という3段階の手順でつくられる。取材段階では、すべての壁が仕上の状態ではなく、またそれぞれの段階で乾燥を待つなど、長い時間がかかるため、各段階の途中の作業状態を見ることができた。最初は柱に通した貫(ぬき)に力竹(カラ竹などを割ってつくったもの)を打ちつけ、小舞(こまい)という細かい格子状の下地を設ける(竹でつくる場合は竹小舞という)。地域によって材料に違いはあるが、理屈は同じ、地産地消の考え方だという。

荒壁は、粘土と藁と水で練った荒土を小舞に塗りつけていく。粘土と藁と水を混ぜて一回寝かせると発酵してきて粘りが出てくる。それを塗るのである。化学のりが入っていないため手間がかかるし、乾燥にも時間がかかる。そしてなんとなく想像できると思うが、乾燥すると土ががちがちに割れてくる。

これが竹小舞。縄でこしらえた格子状のところに土を塗りつける。

中塗は、荒壁の粘土に割れ防止のため砂などを混ぜ、荒壁の割れ目に塗り込んでいく。ここでさらに上級なつくり方をする時は、この中塗の段階で、柱の際(きわ)や貫の際だけを漆喰(しっくい)で抑えておく際漆喰・貫漆喰という技が使われる。手間はかかるが、これをすることによってすき間風が入らなくなる。荒壁の状態で終わってしまう民家も多く、すき間がふさがれず、それでよく土壁は寒いと言われる。

仕上は、色のついた土や漆喰などでつくりあげるが、その仕上げ方は多種多様だ。漆喰というのは、消石灰と砂とフノリと麻の繊維を混ぜてつくられる。千葉さんによれば、漆喰もいろいろ色をつけることが可能だし、珪藻土を使ってもいい、好みでいろいろできるという。

千葉さんは、仕上げは最後まで行わなくても、あえてさまざまな段階の土壁を残してもいいのではないかと考えていた。実際に、ひび割れが入っている状態、塗った土が時間が経って色味が変わった状態、鏝(こて)あとをわざと残した状態、などの壁があって、ほんとうに生きた教材だ。どれもみな独特の風合いが出ていて、おしなべて白い平坦な壁にしなくてもいいのではと思った。

この壁はひび割れ、貫との間のすき間、色の変化が起きている状態、と荒壁の説明をする千葉さん。

荒壁の細かいひび割れに一回中塗を施した状態。

完成させて終わりではない

千葉さんは、こうして今もつくり続けている。もちろん実践であり、修練の場でもある。つくり続けることによって、大工の歴史をあらためて学び、技を磨き、新たな技を探す。またつくり続けることで、家や大工に関心のある人に実際の民家のつくり方の特徴を見てもらい、いろいろなことを伝えていくのだと思う。すでに作業場を建てた頃に、千葉さんはここを「馨香庵」(けいこうあん)と名付けた。この場所に自然にいろんな人たちが集まってきて、心惹かれる家と人の想いが、また馨しい香りのようにふわふわと広がっていくといいな。そんな意味が込められているそうだ。建物の名前であり、大工店の名前であり、千葉さんがやろうとしている活動プロジェクトの名前であり、大工棟梁千葉隆平の生き方に付けられた名前なのかもしれない。

今後、何か人が集まれるきっかけのようなことが起こる、あるいは何か仕掛けができあがる可能性は広がってきた。それでも、ここはまだまだ仕事中であり、思案中であり、蓄積中だ。そこが面白いのではないか。 

 

馨香庵
http://keikouan.com/about.html